2023/09/04
GUCCIは、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci, 1881年 – 1953年)が1921年に創業したイタリアのファッションブランド、および同ブランドを展開する企業である。バッグ・靴・サイフなどの皮革商品をはじめ、服、宝飾品、時計、香水などを幅広く手がけている。クリエイティブ・ディレクターはアレッサンドロ・ミケーレ。
ケリンググループの中核をなすブランドで、同系列にサン・ローラン、バレンシアが、ボッテガ・ヴェネタ、セルジオ・ロッシ、ブシュロン、プーマなどのブランドがある。以前は「グッチ・グループ」として、これら系列各社を代表する存在であったが、1990年代に創業家のお家騒動と外資の買収に翻弄された経緯(後述)が関係し、フランスの流通大手企業であるPPRの保有会社となった。
2011年にグループそのものがPPRグループの100%子会社化されたことで、系列会社を含めて「PPRラグジュアリー・グループ」所属、また2013年の社名変更により「ケリンググループ」の構成企業となった。
ブランドの元祖と呼ばれ、世界で初めて、品質保証のためにデザイナーの名前を商品に入れたことでも知られる。
◆GUCCIの創設
1881年、創業者のグッチオ・グッチはフィレンツェで生まれた。その後ロンドンに移り、イギリス貴族の洗練された感性に刺激を受ける。1901年にフィレンツェへ帰り、第一次世界大戦後の1921年に起業する。以後、数年間で成功を収め、乗馬をモチーフとした皮革製品が人気となる。
イタリアも第二次世界大戦に参戦すると、皮革は統制品となり革が使えなくなってしまったが、代用品としてキャンバス地にコーティングを施して使うことにし、その配色が思わぬ人気を博した。同時期に代用品として竹素材も使用され、こちらもバンブーの名でアイコンとして認識されている。
1953年、グッチオの三男のアルド・グッチが、グッチオの反対を押し切る形でにニューヨークに支店を出した。1953年夏、グッチオ・グッチは72年の生涯を閉じる。グッチオ亡き後、アルドの次男でグッチオの孫のパオロが2代目社長に就任した。
◆パトリツィアによるたくらみとグッチ一族の崩壊
1970年代後半にパオロの従兄弟にあたるマウリツィオ・グッチ(グッチオの五男ロドルフォの一人息子)に、トラック会社の娘のパトリツィア・レッジアーニ(Patrizia Reggiani)という女が接近し、誘惑した。マウリツィオの父親ロドルフォがいつか死ねば、ロドルフォの財産をマウリツィオが相続することを見込んで色仕掛けで近づいたと言われる。ロドルフォは、一人息子を誘惑している女のパトリツィアの考えを見抜いて結婚に猛反対したものの、パトリツィアは誘惑しつづけ、結局父親の反対を押し切って2人は結婚することになり、ロドルフォは一人息子を女に奪われた形になった。
やがてロドルフォが死去し、ロドルフォが持っていたグッチの株式がマウリツィオに相続されると、パトリツィアは夫にグッチを支配するようにそそのかし、それに乗ってマウリツィオはアルドの息子たちのひとりの所有する株式を買い取り、全株式の50%以上を所有し、恩人であったはずのアルドを経営の座から追放した。代わりに、あまり経営の才能があるとは言えないマウリツィオが代表権を持つようになった。さらにマウリツィオの下でライセンス品が蔓延り、ライターやスリッパ、タオルまで販売された。2代目パオロ・グッチの死去に伴い、マウリツィオはパオロの子たちに連衝策を働きかけ、結果的にグッチの株式を独占することになった。当初の野望を成し遂げた形になったパトリツィアは、グッチの女帝のように振る舞い始めた。例えば、デザインの才能もないのに、自分のオリジナルデザインのバッグを作らせたりした。しかし、パトリツィアがデザインしたバッグはほとんど売れず、パトリツィアの野望どおりには事が進まなくなりはじめた。
マウリツィオは妻パトリツィアが自分と結婚したのは自分への愛というより、財産やグッチそのものが目当てであったことにようやく気づき、パトリツィアに嫌気がさして別居、愛を求めて別の女性と暮らすようになった。また、経営の才があるとは言いがたいマウリツィオが経営した会社の売上は、1980年代後半から1990年代前半にかけて年々低下。やがてマウリツィオは中東資本にブランドを売ることになり、グッチ家は経営から締め出された。ただ、マウリツィオにはまだ多額の財産があった。
◆暗殺事件~現在
離婚を求められ当初のたくらみ通りに行かなくなったパトリツィアは、マウリツィオに「罰を与える」として、1995年にマフィアを雇い暗殺を依頼した(事件発覚後押収されたパトリツィアの日記には「金で買えない犯罪は無い」と書かれていたという)。3月27日にマウリツィオはある朝オフィスに入るところで暗殺された。拳銃で後ろから撃たれ、さらに倒れたところを頭部に向かって撃たれ、死亡した。
パトリツィアはマウリツィオの暗殺実行のわずか数時間後には裁判所に行き、マウリツィオの住宅などの差し押さえの申請をしたという。そうしておいて、マウリツィオが愛した女性をその住宅から強引に退去させた。事件は、暗殺犯が暗殺の報酬としてパトリツィアから受け取るお金(日本円にして7000万円相当)に関連して不満があったことが原因で発覚した。パトリツィアは逮捕され、1997年に行われた裁判で懲役29年の判決となった。パトリツィアのたくらみとグッチ一族の崩壊に関しては映画化が何度か構想されたものの、いずれも立ち消えになり実現には至っていなかったが、リドリー・スコットが監督を務める形で映画化が決定し、レディ・ガガ主演で2021年11月に『ハウス・オブ・グッチ』が公開(日本では2022年1月公開)された。
2004年にはフランスを本拠地とする流通会社 Pinault-Printemps-Redoute(PPR)の傘下となり、グッチ・グループの株式の10%程度がLVMHに取得された。この結果、グッチ・グループは、グッチ家の手を離れた。その後、2013年にPPRは組織改編によりケリングと改称、グッチの事業自体もケリングに引き継がれた。
アルドの孫であるグッチオ(ジョルジオ・グッチの息子)はその後、2008年にTOBEGを設立。また、パオロの次男は「ハウス・オブ・ローレンス」を開業し、原点に戻って新たな品質の発信を図るが、グッチ売却の際に交わされた「グッチ家のブランドであるという宣伝を一切してはならない」と言う契約(日本の著作権契約にも近い縛り)により、世界展開を阻まれている。また、一族のコジモ・グッチは、時計ブランド「COGU」を創立した。グッチ家の本家が本社金庫の鍵を現在も所有しており、その返還を求める裁判が係争中である。
日本ではバッグで火が付いたグッチだが、バッグだけのブランドではない。
世界的ファッションブランドのグッチ、その歴史は正に波乱万丈、いくつもの変革期を乗り越えて、デザイナーが変わる都度変化を受け入れ大きく成長するブランドなのだ。変わることを恐れず時代がニーズが変わったことを受け入れて、さらに発展する、老舗ブランドの強みをご覧いただこう。
◆創業者グッチオ・グッチ
1923年に「GUCCI」の店名を掲げる。グッチが主に扱ったのはイギリスから輸入した鞄とその修理である。この鞄の修理によって、壊れやすい箇所や、そこをどう作ればよいかなどの旅行鞄の作り方を研究することができ、使いやすく丈夫な鞄を作る術を学ぶことができた。そしてイギリスから持ち込んだ感性を反映した独自の皮革製品を、選りすぐりのトスカーナの職人たちの手で作り出していった。
ほどなくして、グッチのブランドは、乗馬の世界にモチーフを求めた鞄、トランク、手袋、靴、ベルトなどのコレクションが、洗練された顧客の注目を国内外から集めるようになった。乗馬の世界から、クリップやスティラップ(あぶみ)のモチーフが持ち込まれてモード店としての象徴となり、そのデザインはいよいよ革新的なものになっていった。1940年代には、第二次世界大戦下の閉鎖制作政策による物資の不足に直面しながらも、グッチは他に例を見ないほどの創造性を発揮し精力的に活動した。把手に竹を用いた鞄「バンブー」は、この時期に誕生し、グッチを象徴する様々な商品の先駆けとなった。今でもこのバッグは、セレブリティの女性たちに強く支持されている。
1950年代には、馬具の腹帯にヒントを得た緑=赤=緑のリボンが新たに登場し、ブランドを象徴するものとして新たに親しまれるようになった。ミラノやニューヨークにもブティックを出店するようになると、グッチのブランドはエレガンスと洗練を象徴する存在となっていった。
グッチオ・グッチは、1953年の夏に72年の生涯を閉じる。その後は、息子たちアルド (Aldo)、バスコ (Vasco)、ウーゴ (Ugo)、ロドルフォ (Rodolfo) が父の事業を引き継ぎ、成長させていった。
グッチの創業者はグッチオ・グッチ。そう、グッチのロゴアイコン”GG”は彼のイニシャルからきている。デザイナーの名をブランド名に冠したのはグッチが最初と言われている。グッチの洗練されたデザインは、グッチオがイギリスで働いていたホテルで接したイギリス貴族のスタイルに影響を受けたと言われている。第二次世界大戦では皮革が統制品となったことで牛革が不足するが、代用品としてキャンバス地にコーティングを施した素材が人気を呼び寄せる。大戦後では竹素材も代用品として使用され、シンプルなハンドバッグが生み出された。 現在となってはグッチの代表コレクションの一つとして「バンブー・コレクション」が存在している。今のグッチの礎は彼が築いた。彼の存在がなければ今のグッチは存在していないと言っても過言ではない。
◆次世代 アルド・グッチ&ルドルフォ・グッチの時代
グッチオの息子、アルドとルドルフォの兄弟によってグッチは世界ブランドに躍進していく。アルドは拡大路線を推し進め、映画界と繋がりのあったルドルフォが今でいうメディア戦略を駆使してさらに拡大を推し進めた。
・アルドグッチ
グッチオ・グッチの息子である。ルドルフォの兄。彼は1938年にフィレンツェ郊外のローマに最初のショップをオープンした。
ロベルトロッセリーニの1954年の映画「イタリア旅行」でイングリッドバーグマンの腕に竹製のハンドバッグが登場したとき、グッチは一夜にしてステータスシンボルになりました。 GGの記章は、ハリウッドの有名人やヨーロッパの王族のすぐにお気に入りになった。
1952年、アルドは兄弟のロドルフォとバスコと一緒にニューヨーク市を訪れまた。彼らは、父親が亡くなるわずか2週間前に、イタリア国外のニューヨーク市に最初の店舗をオープンした。ジョン・F・ケネディ大統領は、アルドを最初のイタリアのファッション大使として発表し、「マーチャンダイジングのミケランジェロ」と呼ばれる彼の慈善活動が認められ、ニューヨーク市立大学から名誉学位を授与された。その後、シカゴ、パームビーチ、ビバリーヒルズにショップをオープンした後、グローバルフランチャイズネットワークを通じて東京、香港、そして世界中の都市に進出した。
30年以上にわたり、彼はグッチの拡大に専念し、同社を独自の皮なめし工場、製造、小売施設を持つ垂直統合型ビジネスに発展させた。
・ルドルフォ・グッチ
幼少期に父の・グッチオ・グッチ(1881年生まれ)がフィレンツェにてGUCCIという皮革商品系ブランドを設立し、社長である父を間近で見ながら育った。兄のアルドは若くして家業に入ったが、ロドルフォは学校を卒業してすぐに家業を継ぐ事はなく、1930年代から1940年代後半まではMaurizio D'Ancoraという芸名で俳優として活動し、多数の映画に出演していた。
しかし、1940年に父親から少数の株式を譲り受けたのち、第二次大戦後の1950年頃に俳優業を引退してGUCCIビジネスに参画。ここからビジネスマンとしてのキャリアがスタート。1953年に創業者のグッチオが死去すると会社の株式を相続したロドルフォは彼の兄であるアルドと共に実権を握り、スカーフ・香水をはじめとしてビジネス領域を拡大させていく。1960年代にはロドルフォがミラノのグッチ直営店に訪れたモナコ公国のケリー王妃(元女優のグレース・ケリー)に花柄のスカーフをプレゼントし、この事をきっかけとしてグッチの定番柄である「フローラ」を完成させた。
◆トム・フォード登場でグッチが躍進を遂げる
1990年、グッチのレディスウェアのデザイナーに就任したトムフォードは、その後、その才能を開花させていった。
マウリツィオが退任した1年後の1994年、若干33歳でグッチのクリエイティブ・ディレクターに就任した。
そのころグッチのブランド価値は、地に落ちていたが、トムフォードは、ファッションズ・フューチャー・ベスト・ニュー・デザイナー賞、メンズウェア・アンド・ウィメンズウェア・デザイナー・オブ・ザ・イヤー、VOGUE最高国際デザイナーなど、数々の賞を受賞した。
デザインの才能だけではなく、トムフォードは独自の宣伝方法や、マーケティングによって、グッチの売上を大きく伸ばし、再び、一大ブランドに返り咲いた。
少ないながらも株式を所有していた、残されたグッチ一族の資産は、ほぼ破産状態から、トムフォードのおかげで、43億ドルにまで、 復活したと言われている。
その後、2001年には、グッチ傘下のイブサンローランのクリエイティブ・ディレクターにも就任し、イブサンローランのブランド向上にも大きく貢献した。
ブランドに詳しい方なら、2000年代からのイブサンローランの復活を感じられていたかもしれない。その裏に、トムフォードの努力があった。
しかし、2004年、グッチはフランスの大手流通持株会社、PPRラグジュアリー・グループに買収され、完全子会社になってしまう。
トムフォードは、PPRの方針に賛同できず、グッチのCEOドメニコ・デソーレと共に、グッチを辞任する。
そして2005年、ドメニコ・デソーレと共に、自身のブランド、トムフォードを設立。高級ブランドが立ち並ぶマンハッタンの一角に、1000平方メートル(約303坪)という巨大な店舗を建てた。。
その後の成功は、語るまでもない。今やファッション界で、最も大きなネームバリューを持つといわれるトムフォード。いずれ所属していた、グッチを超えるビッグネームに成長すると言われている。
◆フリーダ・ジャンニーニの功績
トム・フォードとともにグッチを盛り立てていたアレッサンドラ・ファキネッティの後をうけて、フリーダ・ジャンニーニが2005年レディースウェアのデザイナーに就任する。
フリーダ・ジャンニーニは1972年イタリア・ローマ生まれ、1997年フェンディに入社しウェアやレザーグッズを担当して頭角を現し、2002年にハンドバッグのデザインディレクターとしてグッチに入社した。
2004年にアクセサリーデザインディレクターに就任、バッグ・シューズ・時計・スカーフ・ネクタイ・ジュエリーなどでその才能を発揮した。フローラプリントを取り入れたり、乗馬モチーフのクラシックデザインを復活させている。
2006年前任者のジョン・レイの後を受けてクリエイティブ・ディレクターに就任すると、その勢いはクリエイティブ全般に広がっていく。映画界との広告キャンペーン、ユニセフチャリティープログラムではマドンナやリアーナなどのセレブリティとのコラボレーションを果たす。
フリーダ・ジャンニーニの手腕によって、グッチはさらなるステージに引き上げられるべく生まれ変わった。
◆現クリエイティブ・ディレクター アレッサンドロ・ミケーレとは
2014年末、フリーダ・ジャンニーニがグッチCEOのパトリツィオ・ディ・マルコとともに揃って退任すると、後を受け継いだのはCEOにマルコ・ピッザリーニ、そしてクリエイティブディレクターは、トム・フォードの時代にレザーグッズのデザインディレクターであったアレッサンドロ・ミケーレであった。
アレッサンドロ・ミケーレはトム・フォードの鮮烈さとフリーダ・ジャンニーニのフェミニンを土台として新たなグッチを作り上げていく。
アレッサンドロ・ミケーレ、42歳。ローマ出身で、ローマのファッションアカデミー ACCADEMIA DI COSTUME E DI MODAでファッションを学ぶ。その後、フェンディのシニア・アクセサリー・デザイナーとして経験を積み、2002年トム・フォードにその才能を見いだされ、グッチのデザインオフィスに入社。2006年にはレザーグッズのデザイン・ディレクター、2011年5月にはフリーダ・ジャンニーニに次ぐ、アソシエイト・クリエイティブ・ディレクターに就任した。また、インテリアデザインにも情熱を注ぎ、2014年9月よりリチャード・ジノリ(RICHARD GINORI)のクリエイティブ・ディレクターも兼務している。
2015年に就任後、2016年からたった2年で営業利益を10.9%もアップしている。
昨年のコロナ渦の影響により売り上げが減少しましたが、店舗が営業を再開してからは主要な市場で業績を伸ばしているという状況だ。
若い世代を中心に活用されているネットショッピングでの売り上げも好調で、ミケーレが発表する商品が時代の波に乗れていることが分かる。
セールス・勧誘はお断りしております