2023/11/24
●弥生・古墳時代の青銅製の鏡
円形で、周囲をさまざまな文様で飾り、背面には紐をかける鈕があるりました。中国では漢代から三国・六朝時代・唐代にかけて盛行し、日本では弥生時代の遺跡から漢代の鏡や朝鮮系の2〜3の鈕をもつ多鈕細文鏡が副葬品として出土し、古墳時代の遺跡には三国時代以降の鏡が多い。特に古墳時代前期から中期にかけては神獣鏡が多く、中国からの舶載鏡の影響をうけて,日本製の仿製鏡がつくられました。
●飛鳥時代以降の銅鏡
万葉集では「白銅鏡」(まそかがみ)が多くの歌に詠み込まれています。平安時代以降は、鏡背に鶴、鴛鴦(おしどり)、菊、桐などの日本式の文様を表した「和鏡」も製作されました。
大陸から青銅器がもたらされてからほどなくして、日本でも青銅器の生産が始まりました。北部九州では、奴国(現在の博多区から春日市周辺)の須玖遺跡群(現・春日市)が青銅器生産の中心でした。遺跡からは青銅器生産工房跡や鋳型などの青銅器生産の痕跡が見つかっています。鏡の生産が本格的に始まるのは、弥生時代後期のこと。中国でつくられた鏡を模倣して日本などでつくられた鏡は、仿製鏡と呼ばれています。 南区の井尻B遺跡で見つかった石製鋳型は、片面には鏃の型が、反対の面には鏡の型が彫り込まれています。
また、城南区の飯倉D遺跡から見つかった石製鋳型も、片面には矛の型が、反対の面には鏡の型が彫り込まれています。両方とも黒く変化しており、実際に使用されたことがわかります。これらの鋳型でつくられた小型の仿製鏡は溝や井戸といった集落や流路などから見つかることもあります。銅鏡は、権威の象徴として使用されたほかにも、自然などに対する祭祀に使われたようです。
古墳時代になると、畿内を中心として前方後円墳がつくられるようになります。弥生時代から引き続き、権威の象徴の意味を持っていた銅鏡は、当時のその土地の有力者のお墓である古墳へ副葬されました。福岡で最も早く造られた前方後円墳は、博多区にある那珂八幡古墳です。この古墳からは、三角縁画文帯五神四獣鏡が見つかりました。この鏡は、岡山県備前車塚古墳や京都府椿井大塚山古墳などの鏡と同じ鋳型を使ってつくられたもので、三角縁神獣鏡と呼ばれる鏡の種類のひとつです。
三角縁神獣鏡は、様々な文様の種類があり、その文様の構成から名前がつけられています。中央政権との政治的な関係性から分配されたと考えられています。一方で、西区の夫婦塚古墳で見つかった、鈴がついた鏡は、九州では珍しいものですが、当時の人々の様子をあらわしたハニワに見られるように、呪術の道具として使用されたと考えられています。
また、銅鏡の形を真似してつくられた土製模造鏡もまた、祭祀などに使用されたと考えられています。弥生時代に比べて祭祀的な意味合いは薄くなったものの、依然として不思議な力が宿るものとして使用されていたのでしょう。古墳時代が終わり、奈良・平安時代へと移り変わっても、人々の銅鏡へ対するあこがれはやむことはありませんでした。しかし、権威の象徴として使用された銅鏡は、やがて日本独自の文様を取り入れるなど人々の生活用具として定着するまでになります。
形や用途、性格を変えながら現代まで伝わった鏡は、それぞれの時代の思想や政治的様相、人々の好みなど様々なものをまさに「映し出してきた」といえるでしょう。
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